大河津分水路補修工事

写真とともに振り返る、宮本武之輔のハイライトです。

1 完成した自在堰(大正11年8月)

1 完成した自在堰(大正11年8月)

2 濁流に洗われる陥没した自在堰(昭和2年6月24日)

2 濁流に洗われる陥没した自在堰(昭和2年6月24日)

3 大河津分水補修工事・工事関係者を前に決意を訴える宮本

3 大河津分水補修工事・工事関係者を前に決意を訴える宮本

4 可動堰前の宮本武之輔、青山士

4 可動堰前の宮本武之輔、青山士

5 最新技術である鋼矢板工法を採用した可動堰基礎工事(昭和4年12月)

5 最新技術である鋼矢板工法を採用した可動堰基礎工事(昭和4年12月)

6 五千石工場職員 宮本作詞の作業歌を歌い合った

6 五千石工場職員 宮本作詞の作業歌を歌い合った

7 可動堰ゲートの組み立て作業(昭和5年3月)

7 可動堰ゲートの組み立て作業(昭和5年3月)

8 完成間近の可動堰

8 完成間近の可動堰

9 自在堰の撤去(爆破作業)

9 自在堰の撤去(爆破作業)

10 可動堰仮締切の撤去、工事はいちから出直しになりかねなかった

10 可動堰仮締切の撤去、工事はいちから出直しになりかねなかった

11 上流部の堤防決壊を防ぐため可動堰上流仮締切を切る(昭和5年8月2日)

11 上流部の堤防決壊を防ぐため可動堰上流仮締切を切る(昭和5年8月2日)

12 信濃川補修工事竣工を記念して作られた碑

12 信濃川補修工事竣工を記念して作られた碑

13 完成した可動堰(昭和6年6月)

13 完成した可動堰(昭和6年6月)

14 信濃川補修工事竣工式式場

14 信濃川補修工事竣工式式場

15 完成記念絵葉書

15 完成記念絵葉書

16 工事報告を行なう宮本 時々声を詰まらせた

16 工事報告を行なう宮本 時々声を詰まらせた

17 竣工碑前記念写真 宮本武之輔(前列右側6人目)

17 竣工碑前記念写真 宮本武之輔(前列右側6人目)

18 内務省新潟土木出張所職員(最前列右側7人目青山、8人目宮本)

18 内務省新潟土木出張所職員(最前列右側7人目青山、8人目宮本)

写真は国土交通省信濃川河川事務所、(社)北陸建設弘済会のご協力による。

設立趣意書|設立経過

松山が生んだ情熱のエンジニア
「宮本武之輔を偲び顕彰する会」設立趣意書

蛇口をひねれば綺麗な水が出る。ボタン一つでトイレが水洗され、スイッチ一つで電気が付き、調理ができ、リアルタイムに情報を得ることが出来る。それが特別なことではなくどこにでも見られる普通のことになった。本当に我々の生活は便利になった。
この便利な生活を支えるインフラ整備に、どれだけ多くの時間と労力と経費がかかったかなどと考える人はまず居ないであろう。ましてや、そのインフラ整備にどれくらい高度な技術力が必要で、どのような技術者がどのような考えで取り組んだのかなどと思索する人は居ないであろう。

しかし、そこには必ず高度な技術力を持ち、そこに暮らす民衆のことを考えて今日のインフラ整備のために日本の国土に闘いを挑んできた多くの技術者が居たはずである。安政元年に生まれフランスに留学して近代日本の土木の基礎を築いた古市公威、文久元年生まれで琵琶湖疎水を完成させた若き土木技師田辺朔郎、文久2年生まれで北海道のインフラ整備に挑んだ広井勇、パナマ運河の建設に挑み、荒川放水路を完成させた青山士、台湾最大の嘉南平原に東洋一の灌漑施設を完成させた八田與一、朝鮮半島に貯水量55億トン発電量70万kwの水豊ダム完成させた久保田豊など、実に多くの技術者の知恵と汗によって今日の便利な生活が保障されたのである。

そのような技術者の一人に、我が郷土、松山が生んだ情熱のエンジニア宮本武之輔が居る。新潟の大河津分水可動堰修復工事における宮本武之輔の活躍は、土木史上に燦然と輝く金字塔であり、官僚として技術者の地位向上のために奮闘してきたことも特記されることである。しかし、松山で彼の名前を知る人はほとんど居ない。それどころか顕彰碑のある興居島においてさえも、知られていない。

そこで宮本武之輔と同じ郷土に住む我々が、宮本武之輔の足跡をたどり、民衆のために生きた偉大な業績と生き方を知ると共に、その情報を発信することによって波紋を広げ、我が郷土が生んだ情熱のエンジニア宮本武之輔を訪ね、顕彰し、「飲水思源」の大切さを特に若き青少年に知っていただくためにこの会を結成した。

民衆と共に生きた情熱のエンジニア
「宮本武之輔を偲び顕彰する会」の設立経過

平成17年夏、高橋裕東大工学部名誉教授による講演と映写会が愛大で行われた。演題は「民衆のために生きた土木技術者たち」で郷土が生んだ土木技師宮本武之輔のことを中心に青山士、八田與一のことについて話され、続いて大成建設の企画で生まれた三人の足跡をたどる映画が上映された。

この講演と映写会は大きな反響を呼んだ。そのような中で、宮本武之輔を多くの人に知ってもらいたいと考える有志が集まって第一回の会合が持たれた。平成18年6月23日のことである。18時30分から辻町の専門学校で行われた発会式への参加者は、鈴木幸一・菊池雅彦・中川達郎・田村守・勝谷雄三・土居繁・赤根良忠・石丸敬三・古川勝三の8名であった。以後2ヶ月に1回の割合で会合を持ち、武之輔の日記の読み調べや現地興居島での調査や地域住民への協力要請などを行っている。

「宮本武之輔を偲び顕彰する会」会則

第1条 名称

本会は、「宮本武之輔を偲び顕彰する会」と称する。

第2条 目的

宮本武之輔の足跡をたどり、多くの人々にその生き方や業績を認識してもらうための顕彰活動を行う。

第3条 構成

本会は、次の会員で構成する。

1 正会員・・・入会届を提出し会費を納め、本会の目的達成の活動を行う会員

2 特別会員・・本会の目的に賛同し、役員会によって承認され会費を免除された会員

第4条 事業

本会は、第2条の目的達成のために、次の事業を行う。

1 宮本武之輔に関する研究

2 宮本武之輔の顕彰に関する活動

3 会員の親睦に関する活動

4 会報・会誌の発刊

5 その他本会の目的達成に必要な事業

第5条 事務局

本会の事務局は、松山市内または松山市内周辺に置く。

第6条 役員

本会には、次の役員を置く。

1 会長    1名

2 副会長   1名

3 幹事   若干名

4 会計    1名

5 監査    1名

6 事務局長  1名

第7条 役員

1 役員は会員の推薦により選出し、総会の決議により決定する。

2 役員の任期は1年とする。但し、再選を妨げない。

3 役員は任期終了後といえども、後任者が就任するまで引き続きその任にあたるものとする。

4 役員が年度途中で欠員になった場合は、会長が選任する。

第8条 役員の任務

1 会長は、本会を総括し本会を代表する。

2 副会長は、会長を補佐し会長に事故あるときは、これを代理する。

3 幹事は、本会の重要事項の決定に参与する。

4 会計は、総会で議決された予算の執行及び決算報告等の会計関するすべての事務を行う。

5 監査は、会計に関する監査を行い、総会で監査報告を行う。

6 事務局長は、会員への連絡及び本会業務に関する事務を行う。

第9条 総会

1 総会は、本会の最高決定機関であり、会長が招集し議長となる。

2 総会の議決は、出席者(委任状を含む)の過半数の賛成を以て成立する。

3 総会は、規約の改正、予算・決議案の決議、役員選出のほか、本会の目的遂行のための決議を行う。

4 総会は、毎年4月に開催する。但し、会長の判断により臨時総会を開催することができる。

第10条 役員会

1 役員会は、会長・副会長・幹事・事務局長で構成し、必要に応じて会長が招集し、議長となる。

2 役員会の議決は、第9条2を準用する。

3 役員会は、本会則に定められた事項のほか、次の事項を審議する。

(1)本会業務の執行に関する事項

(2)総会に提出すべき原案の作成

(3)本会の執行に関する細則の決定

(4)一般会計及び特別会計等の予算外支出の承認を必要とする事項

(5)総会を開催できない場合の総会の権限に属する事項

第11条 会計

1 本会の経費は、会費・寄付金及びその他の収入を以てこれに充てる。

2 総会で承認された予算外の支出を行うときは、役員会の承認に基づいて行う。

3 本会の会計年度は、4月1日始まり翌年3月31日に終わる。

第12条 会費の納入

1 正会員は一人年額5,000円の会費を納入するものとする。但し、特別会員についてはこの限りではない。

2 会費を3年間未納の正会員は、役員会の決定により、会員資格を停止することができる。

第13条 慶弔

1 会員の慶弔に関する内容は、原則として役員会においてその都度決定する。但し、急を要する場合は、会長の判断により決定できるものとする。

付則

本会則は、平成19年4月1日から施行する。

本会則は、平成21年6月19日から改正施行する。

会について

この「宮本武之輔を偲び顕彰する会」は、文才に恵まれた工人(エンジニア)である宮本武之輔の足跡を明らかにすることによって、その偉業を偲び広く世に伝えることを目的とし活動しています。

宮本武之輔(1892(明治25)年~1941(昭和16)年)は、愛媛県松山市沖に浮かぶ興居島(ごごしま)が産んだ戦前を代表する技術官僚です。
彼の生きた明治後期・大正・昭和初期は、日本の近代化が急速に進んでいた時期です。この激動の時代に、篤志家の援助を受けて大学に進学して内務省の技術官僚となり、当時国の施策を決定する最高機関である企画院の次長まで登りつめました。

彼は旧制中学入学時から49歳でなくなるまで克明な日記を書き続けていています。その残された膨大な日記から、宮本武之輔の波乱の人生と土木技術者としてだけでなく一人の人間としてのその生き様を知ることができます。また、この「武之輔日記」は当時の人々の日常生活や考え方も知る上で大変貴重な資料となっています。

活動内容は資料を収集、文献や日記を読む、足跡をたどる、親族や関係者の話を聞く、講演会を開く、展示会を開くなど、多岐にわたっています。

【講演会の様子】


【展示会の様子】


【現地の査察】


あなたも私たち、宮本武之輔を偲び顕彰する会で、宮本武之輔を深く知ってみませんか?

詳しくはお問合せください。あなたのご連絡をお待ちしております。

お問合せ

学生時代の日記に見る宮本武之輔

私が宮本武之輔に出あったのは、公共土木事業に関連する業を営む者として、知っておいたほうが良いからという理由で、この「宮本武之輔を偲び顕彰する会」に参加させていただいてからである。この会の主な活動のひとつに、宮本武之輔の日記を読むことで、宮本武之輔の人物像を明らかにすることがある。従って、まだほんの一部分の日記しか読んでいないが、特に学生時代の日記から窺い知れる宮本武之輔の人物像を調べることとした。
前述のとおり、まだ一部分しか読めていないため、これから読み進めることによる日記の記述内容の経時変化については、目をつぶっていただき、途中経過として参考にしていただければ幸いである。

宮本武之輔の日記のテーマは、本人が最初に書いてあるとおり、「もし、一度逢っては永久的に別れ或は一度言葉をかはしたがたままにして別れ或は、その各も知らず其顔も知らざる人と人との間に一個の意義が感ぜられるならば、筆を取りて、人生の行程及び吾れと他の人生との交錯の痕を紙の上に止めて見るのも、強ち無意味なことではあるまいと思ふ。」と記されているように、宮本武之輔の日常の生活、家族、友人との出会いやエピソードを記した記録である。特に学生時代の日記には、日々の学業や友人との交流などの日常生活が、読んでいる人にも情景が伝わるような文章で綴られており興味深い。
私には、明治生まれの祖父がいたが、その祖父が生きた時代の様子(もっとも祖父は人生のほとんどを愛媛県で過ごしたが)を垣間見るような気がするためそう感じるのかもしれない。
学生時代の日記の内容は、時代こそ違え、多感な青年時代にだれでも体験するような出来事が綴られている普通の日記である。その日記より感じた宮本武之輔の人となりについて、

  • 向上心
  • 正義感
  • 判断の論理性
  • 考え方の多様性
  • 公共性
  • 茶目っ気、ユーモア
  • 家族との深いつながり
  • 細かい観察力

というキーワードが読み取れる。それらは

  • 人生には、幾度も選別の機会があるが、最初の選別に残ってこそ人として生きる価値がある(そのために、常に準備を怠らない)という向上心
  • 物事は、「善」の立場から「悪」は間違いだが、「悪」の立場からは「善」は間違いである。正しい判断を下すには、共通の基準が必要であるという考え方の多様性と論理性
  • 浴場で、自分の流したお湯が、他の人の方に流れていき、その人の臀部にかかってしまったことに対して、自分の公共性のなさを反省する純粋さと公共性に対する自省
  • ちょっとした悪戯を「××日記」と題して詳細に出来事を書き残す茶目っ気

等の日記の内容から窺い知ることができる。

しかし、これらのキーワードは、後に大河津分水の可動堰建設工事を成功させ、日本の科学技術発展の基礎を築いたという実績を元に導き出した「逆引きのキーワード」であり、その当時からそれらの偉業を為し得る素養を備えていたという証拠と判断することは早計である。

日記を読む限り、宮本武之輔は品行方正な優等生ではなく、当時どこにでも居そうな、学生生活を楽しみ、親近感がわく真面目な学生のように感じられる。その学生がこれからどのような経緯を経て偉業を成し遂げるに至るのかは、これから更に日記を読み進めて調べていく予定である。また、日記を書き始める前の宮本武之輔の生活についても調べる必要が出てくるかもしれない。今後、皆さんにご報告できる内容の成果ができたときに、また結果を報告させていただきたい。

ありがとうございました。

筆- 岡 兵典 -

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技術

1.土木工学科カリキュラム

大正3年9月に、東京帝国大学工学部土木工学科に入学。土木工学科には、教授として
広井勇、柴田畔作、中山秀三郎、中島鋭治、助教授に草間偉瑳武、永山弥次郎、また講師
として近藤虎五郎、直木倫太郎がいた。在学した3年間(大正3年から5年まで)のカリ
キュラムは以下の通りである。
第1学年:数学、応用力学、熱機関大意、建築材料、製造冶金学、地質学、石工学、
水力学、橋梁、道路、測量、計画製図及実習
第2学年:河海工学、鉄道、橋梁、衛生工学、石工学、電気工学大意、機械工作法、
工業経済学、計画及製図、実地測量
第3学年:河海工学、市街鉄道、石工学、水力機、地震学、土木行政法、建築構造、
計画及製図、実地演習、卒業計画

2.利根川改修計画
大正6年8月に内務省入省と同時に内務省関東土木出張所(現国土交通省関東地方整備
局)に配属され、利根川第2期改事務所の安食工場に「工費雇」として勤務を始める。武
之輔 25 歳であり、月俸 50 円が給与された。
内務省は明治 29 年に河川法を制定して国直轄の治水事業を本格的に始めた。利根川水系
においては、大規模改修工事が下流部から始められ、第1期工事は河口から千葉県佐原町
(現:佐原市)まで、第2期工事は佐原町から茨城県取手町(現:取手市)まで(図1)、
図1 利根川の第2期改修区間とその付近の河川(利根川百年史より)
第3期は取手町から群馬県佐波郡芝根村(現:佐波郡玉村町)までであった。総延長が約200 キロメートルで、利根川全体の約3分の2にあたる区間で、低水工事とともに洪水対策の改修工事が計画された。改修計画に要する費用は巨額で、当時の国家予算の約 40 パーセントを占めるものだった。

3.荒川放水路と小名木川閘門
大正8年8月、荒川放水路開削事業のうち下流部の小名木川閘門の設計施工を命じられ
る。このときの主任技師(現所長)が、パナマ運河開削工事に日本人技術者としてただ一
人携わった青山士(あきら)であった。43 年8月に関東地方を襲った大洪水は、荒川や利
根川など主要河川の破堤を生じさせ濁流が東京の下町に押し寄せ、帝都を沈没させた。こ
れに対して利根川、多摩川、荒川など関東の治水計画が作成されたが、その主な事業の一
つが荒川放水路であった(図2)。氾濫を繰り返す荒川の洪水を東京湾に流す放水路の開削
は、岩渕町(現:北区)から砂町地先までの約 22 キロメートルに及んでいる。放水路の川
幅は 500 メートルであり、大地を掘る掘削機、土砂を運ぶ機関車、川底を掘る浚渫船等が
投入され、荒川放水路開削工事は約 15 年の歳月をかけて完成した。この大規模工事の要で
あった岩渕水門は青山士が設計施工を担当し、小名木川閘門は宮本武之輔が担当した。岩
渕水門は洪水の際に放水路にその大部分を流し込む水門であり、大正13年に完成したが、
役割を終えた現在も「赤水門」の記念碑として残されている。小名木川閘門(図3)は、
荒川放水路が江戸川と隅田川を結ぶ通行用掘割であった小名木川を分断するため、その交
点に逆流防止と舟運確保のために計画されたものである。この閘門は最新の鉄筋コンクリ
ート工法を導入して建設されたが、戦後その役割を終えて解体され現在、武之輔の遺業を
偲ぶことはできない。

4.博士論文「コンクリート及び鉄筋コンクリート忸力試験」
武之輔は欧米出張(大正 12 年9月~大正 14 年3月)中にまとめ始めた研究が「コンク
リート及び鉄筋コンクリート忸力試験」である。これは、鉄筋コンクリートの桁や杭が地
震時に「ねじれ」の力を受けた場合の応力がどう変化するかに関する問題であった。大正
14 年6月に「忸力(ちゅうりょく)論」400 枚を土木学会誌に投稿した。さらに、昭和2
年1月、論文「コンクリート及び鉄筋コンクリート忸力試験」を東京帝国大学に提出し、
この論文が 12 月の工学部教授会で工学博士論文として承認された。

5.大河津分水と可動堰
長野県に発し新潟市に河口を持つ信濃川は、全長 367 キロメートルと日本一の長さと豊
かな水量を誇る大河である。かつては毎年のように洪水による氾濫を繰り返し、特に明治
29 年夏の「横田切れ」は信濃川水害の最大悲劇の一つであった。この年の7月、現在の大
河津分水分派点よりやや下流の横田地区で 360 メートルにわたって破堤した。これを契機
に内務省は信濃川の治水対策として、洪水を分水によって日本海に流す大河津分水を計画
し明治 42 年に直轄工事に着手した。分水路は三島郡大河津村(現:燕市大川津)から日本
海の寺泊町(現:長岡市野積)までの 10 キロメートルであった(図4)が、工事中、3度
にわたる地滑りの発生や風土病(ツツガムシ病)の蔓延など、分水路開削工事は難航を極
めた。着工から 13 年後の 11 年に当時東洋一の近代的自在堰(写真1)が完成し、水害に
苦しんできた農民はその完成をこぞって祝った。しかし、完成からわずか5年後の昭和2
年6月 24 日、この自在堰が激流の中に陥没してしまった。陥没の原因は、堰直下流の河床
が流水のために局所的に洗掘され、堰の基礎となっていた堰底部の土砂が吸い出されたた
めであった。陥没した自在堰復旧工事は軟弱地盤などではかどらず、内務省は原型復旧を
断念して新たな可動堰を建設することを決めた。新たに任命された新潟出張所長(現国土
交通省北陸整備局長)の青山士と現場の主任技師に任命された宮本武之輔が、堰の復旧の
全責任を負うことになった。昭和2年 11 月に信濃川補修事務所が現地に開設され 36 歳の
武之輔が信濃川維持大河津工場主任となった。わずか3年半後の昭和6年6月 20 日補修工
事の竣工報告祭が大河津分水可動堰(写真2)で行われた。工事期間中に、計画高水流量
の毎秒 5,570 立法メートルの 90 パーセントにあたる大洪水が発生し、洪水を防ぐために「仮
締め切り」を切らざるを得ない事態も発生した。「民を信じ、民を愛す」を信条とする武之
輔の果敢な決断が農民からの信頼を得て、工事の速やかな進捗を促した。

6.総合水害対策
内務省は、前年の東日本の大水害に対し明治 44 年に全国大河川の改修のための第1次治
水計画を策定し、大正 10 年に第2次治水計画を立案したが、予算不足等で計画の実施が遅
れていた。このため内務省は、昭和8年に第3次治水計画を緊急に策定した。この計画作
成の主役は、内務省土木局技術部幹部になっていた宮本武之輔であった。政府の土木会議
は、昭和 10 年に「水害防止のために関係官庁の緊密な連絡のもとに実現すべきこと」とし
て次の5項目をあげている。
1)河川改修及び砂防事業促進 2)荒廃地復旧事業の促進 3)河川の維持管理の充実
4)水防の強化、河川愛護の普及及び徹底 5)河水統制の調査並びに施行
この5項目が新しい治水事業の基本方針となった。これを受けて、内務技監青山士を議長
とし、内務省、鉄道省、農林省、逓信省、商工省などの関係省庁の幹部 82 人で構成された、
水害防止協議会が設置された。宮本武之輔は内務省土木局の 15 人とともに協議会委員に選
ばれ、幹事として青山議長を支え計画立案を推進した。特に、水害防止対策は「総合技術」
で対処しなければならないことを強調している。

7.「河川工学」担当
宮本武之輔は、昭和 11 年5月に東京帝国大学工学部講師になり、週1回出講することに
なる。その後、9月 16 日付けで河川工学担当の兼任教授に発令されている。
「河川工学」は、河川という媒介を通じて人間と水との関わり合いの中から得られた経
験や技術を一般化しようとした学問である。ただ、河川の役割は治水・利水・環境と一口
にいわれるが、これらの役割の重要性は地域的にも時代の変遷でも大いに異なっていて、
当時の日本全国の河川事業はほとんど治水であった。
長く幅広い河川行政の経験に基づく武之輔の「河川工学」の講義を聴講できないのが残
念である。

興居島の記憶

興居島にある宮本武之輔顕彰碑

興居島にある宮本武之輔顕彰碑

興居島には宮本武之輔の顕彰碑があります。興居島出身の偉大な人物を称えています。

偉大なる技術者/宮本武之輔博士/この島に生る
宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し/卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる/文才とを兼ね具へ終生科学立国を主唱す/知る者皆其の徳を慕う/明治25年1月生/東京帝国大学工学科卒業・内務技師として我国土木事業に盡瘁(じんすい)/興亜院技術部長として大陸の建設事業を指導/企画院次長として産業立国の策定に挺身/昭和16年12月東京に於いて没す

昭和29年5月 全日本建設技術協会が建立

 

顕彰碑(裏)

顕彰碑(裏)