宮本武之輔交流事業 27.4.14~15

松山の土木偉人
宮 本 武 之 輔 交 流 事 業
宮本武之輔の功績を通じた
~「愛媛県松山市」と「新潟県燕市」の交流促進に向けて~

平成27年4月14日(火) 交流記念講演会 【松山市役所11階大会議室】

◆ 記念講演 高橋 裕 東京大学名誉教授
2015年(第31回)日本国際賞(Japan Prize)受賞
演題:松山の土木偉人 宮本武之輔 燕市大河津での偉業
◆ パネルディスカッション
テーマ:災害につよい川づくりについて
司 会 鈴木 幸一 宮本武之輔交流事業実行委員会会長
パネラー 国土交通省四国地方整備局河川部河川調査官 高橋政則
愛媛県土木部河川港湾局河川課主幹 石丸敬三
NPO法人大河津資料館友の会理事 樋口 勲



平成27年4月15日(水) 生誕地碑除幕 【松山市役所興居島支所前】

◆ 松山市長、燕市市長挨拶
◆ 生誕地碑除幕(児童・生徒)
◆ 生徒の作文(郷土の偉人)披露


(顕 彰 碑)昭和29年5月 全日本建設技術協会建立
(銅 像)平成25年1月5日 宮本武之輔を偲び顕彰する会建立
(生誕地碑)平成27年4月15日 宮本武之輔を偲び顕彰する会建立

宮本武之輔の紹介(略歴及び功績)
syoukai_miyamototakenosuke明治25年愛媛県松山市興居島に生まれ、小学校の頃、父親が事業に失敗し、 全財産を失い中学校に進学できず、瀬戸内海航路の貨客船のボーイとなって家 計を助けた。 その後、興居島の篤志家宮田兵吉の援助を受け勉学の道に戻り、私立錦城 中学校に編入学し、異父兄窪内石太郎の影響を受け工科のコースを歩む決心 をする。第一高等学校を無試験入学、東京帝国大学土木工学科を主席(恩賜の 銀時計組)で卒業後、大正6年内務省に入省する。 利根川、荒川の大規模河川改修を手掛け、荒川では、「小名木川閘門」の設 計施工を担当し、大正12年から大正14年の1年半、鉄筋コンクリート構造物の 研究のため、欧米諸国(フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ)を歴訪した。

昭和2年の信濃川大河津自在堰陥没事故で、信濃川が干上がり農業用水が枯渇する事態となったため、内務省の 威信をかけた可動堰建設の陣頭指揮をとり、出水や風雪、風土病と戦いながら、わずか4年後の昭和6年に完成させ、 越後平野を洪水から守り、民衆のために尽した。 また、コンクリート工学博士となり、「鉄筋コンクリート」「治水工学」等を執筆、昭和12年に東京帝国大学教授(河川工 学)を兼任する。 日本工人倶楽部発足など、技術者の地位向上の運動を展開するとともに、科学技術の体制づくりのため、科学技術 庁の設立に取り組んだ。 昭和15年に内務省土木局から、内閣直属の中国占領地域に対する最高行政機関であった興亜院の技術部長に抜 擢され、昭和16年には国の最高政策立案機関であった企画院の次長(官僚のトップ)に就任。
昭和16年12月24日、東京で悪性肺炎のため急逝(享年49歳)

syoukai_shinanogawa信濃川大河津分水・可動堰(撤去前) 新潟県燕市五千石(旧水分町) 昭和2年の信濃川大河津自在堰陥没事故で、信 濃川が干上がり農業用水が枯渇する事態となっ た。 宮本武之輔は、内務省の威信をかけた可動堰建 設の陣頭指揮をとり、出水や風雪、風土病と戦い ながら、わずか4年後の昭和6年に完成させ、越後 平野を洪水から守り、民衆のために尽した。

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