技術

1.土木工学科カリキュラム

大正3年9月に、東京帝国大学工学部土木工学科に入学。土木工学科には、教授として
広井勇、柴田畔作、中山秀三郎、中島鋭治、助教授に草間偉瑳武、永山弥次郎、また講師
として近藤虎五郎、直木倫太郎がいた。在学した3年間(大正3年から5年まで)のカリ
キュラムは以下の通りである。
第1学年:数学、応用力学、熱機関大意、建築材料、製造冶金学、地質学、石工学、
水力学、橋梁、道路、測量、計画製図及実習
第2学年:河海工学、鉄道、橋梁、衛生工学、石工学、電気工学大意、機械工作法、
工業経済学、計画及製図、実地測量
第3学年:河海工学、市街鉄道、石工学、水力機、地震学、土木行政法、建築構造、
計画及製図、実地演習、卒業計画

2.利根川改修計画
大正6年8月に内務省入省と同時に内務省関東土木出張所(現国土交通省関東地方整備
局)に配属され、利根川第2期改事務所の安食工場に「工費雇」として勤務を始める。武
之輔 25 歳であり、月俸 50 円が給与された。
内務省は明治 29 年に河川法を制定して国直轄の治水事業を本格的に始めた。利根川水系
においては、大規模改修工事が下流部から始められ、第1期工事は河口から千葉県佐原町
(現:佐原市)まで、第2期工事は佐原町から茨城県取手町(現:取手市)まで(図1)、
図1 利根川の第2期改修区間とその付近の河川(利根川百年史より)
第3期は取手町から群馬県佐波郡芝根村(現:佐波郡玉村町)までであった。総延長が約200 キロメートルで、利根川全体の約3分の2にあたる区間で、低水工事とともに洪水対策の改修工事が計画された。改修計画に要する費用は巨額で、当時の国家予算の約 40 パーセントを占めるものだった。

3.荒川放水路と小名木川閘門
大正8年8月、荒川放水路開削事業のうち下流部の小名木川閘門の設計施工を命じられ
る。このときの主任技師(現所長)が、パナマ運河開削工事に日本人技術者としてただ一
人携わった青山士(あきら)であった。43 年8月に関東地方を襲った大洪水は、荒川や利
根川など主要河川の破堤を生じさせ濁流が東京の下町に押し寄せ、帝都を沈没させた。こ
れに対して利根川、多摩川、荒川など関東の治水計画が作成されたが、その主な事業の一
つが荒川放水路であった(図2)。氾濫を繰り返す荒川の洪水を東京湾に流す放水路の開削
は、岩渕町(現:北区)から砂町地先までの約 22 キロメートルに及んでいる。放水路の川
幅は 500 メートルであり、大地を掘る掘削機、土砂を運ぶ機関車、川底を掘る浚渫船等が
投入され、荒川放水路開削工事は約 15 年の歳月をかけて完成した。この大規模工事の要で
あった岩渕水門は青山士が設計施工を担当し、小名木川閘門は宮本武之輔が担当した。岩
渕水門は洪水の際に放水路にその大部分を流し込む水門であり、大正13年に完成したが、
役割を終えた現在も「赤水門」の記念碑として残されている。小名木川閘門(図3)は、
荒川放水路が江戸川と隅田川を結ぶ通行用掘割であった小名木川を分断するため、その交
点に逆流防止と舟運確保のために計画されたものである。この閘門は最新の鉄筋コンクリ
ート工法を導入して建設されたが、戦後その役割を終えて解体され現在、武之輔の遺業を
偲ぶことはできない。

4.博士論文「コンクリート及び鉄筋コンクリート忸力試験」
武之輔は欧米出張(大正 12 年9月~大正 14 年3月)中にまとめ始めた研究が「コンク
リート及び鉄筋コンクリート忸力試験」である。これは、鉄筋コンクリートの桁や杭が地
震時に「ねじれ」の力を受けた場合の応力がどう変化するかに関する問題であった。大正
14 年6月に「忸力(ちゅうりょく)論」400 枚を土木学会誌に投稿した。さらに、昭和2
年1月、論文「コンクリート及び鉄筋コンクリート忸力試験」を東京帝国大学に提出し、
この論文が 12 月の工学部教授会で工学博士論文として承認された。

5.大河津分水と可動堰
長野県に発し新潟市に河口を持つ信濃川は、全長 367 キロメートルと日本一の長さと豊
かな水量を誇る大河である。かつては毎年のように洪水による氾濫を繰り返し、特に明治
29 年夏の「横田切れ」は信濃川水害の最大悲劇の一つであった。この年の7月、現在の大
河津分水分派点よりやや下流の横田地区で 360 メートルにわたって破堤した。これを契機
に内務省は信濃川の治水対策として、洪水を分水によって日本海に流す大河津分水を計画
し明治 42 年に直轄工事に着手した。分水路は三島郡大河津村(現:燕市大川津)から日本
海の寺泊町(現:長岡市野積)までの 10 キロメートルであった(図4)が、工事中、3度
にわたる地滑りの発生や風土病(ツツガムシ病)の蔓延など、分水路開削工事は難航を極
めた。着工から 13 年後の 11 年に当時東洋一の近代的自在堰(写真1)が完成し、水害に
苦しんできた農民はその完成をこぞって祝った。しかし、完成からわずか5年後の昭和2
年6月 24 日、この自在堰が激流の中に陥没してしまった。陥没の原因は、堰直下流の河床
が流水のために局所的に洗掘され、堰の基礎となっていた堰底部の土砂が吸い出されたた
めであった。陥没した自在堰復旧工事は軟弱地盤などではかどらず、内務省は原型復旧を
断念して新たな可動堰を建設することを決めた。新たに任命された新潟出張所長(現国土
交通省北陸整備局長)の青山士と現場の主任技師に任命された宮本武之輔が、堰の復旧の
全責任を負うことになった。昭和2年 11 月に信濃川補修事務所が現地に開設され 36 歳の
武之輔が信濃川維持大河津工場主任となった。わずか3年半後の昭和6年6月 20 日補修工
事の竣工報告祭が大河津分水可動堰(写真2)で行われた。工事期間中に、計画高水流量
の毎秒 5,570 立法メートルの 90 パーセントにあたる大洪水が発生し、洪水を防ぐために「仮
締め切り」を切らざるを得ない事態も発生した。「民を信じ、民を愛す」を信条とする武之
輔の果敢な決断が農民からの信頼を得て、工事の速やかな進捗を促した。

6.総合水害対策
内務省は、前年の東日本の大水害に対し明治 44 年に全国大河川の改修のための第1次治
水計画を策定し、大正 10 年に第2次治水計画を立案したが、予算不足等で計画の実施が遅
れていた。このため内務省は、昭和8年に第3次治水計画を緊急に策定した。この計画作
成の主役は、内務省土木局技術部幹部になっていた宮本武之輔であった。政府の土木会議
は、昭和 10 年に「水害防止のために関係官庁の緊密な連絡のもとに実現すべきこと」とし
て次の5項目をあげている。
1)河川改修及び砂防事業促進 2)荒廃地復旧事業の促進 3)河川の維持管理の充実
4)水防の強化、河川愛護の普及及び徹底 5)河水統制の調査並びに施行
この5項目が新しい治水事業の基本方針となった。これを受けて、内務技監青山士を議長
とし、内務省、鉄道省、農林省、逓信省、商工省などの関係省庁の幹部 82 人で構成された、
水害防止協議会が設置された。宮本武之輔は内務省土木局の 15 人とともに協議会委員に選
ばれ、幹事として青山議長を支え計画立案を推進した。特に、水害防止対策は「総合技術」
で対処しなければならないことを強調している。

7.「河川工学」担当
宮本武之輔は、昭和 11 年5月に東京帝国大学工学部講師になり、週1回出講することに
なる。その後、9月 16 日付けで河川工学担当の兼任教授に発令されている。
「河川工学」は、河川という媒介を通じて人間と水との関わり合いの中から得られた経
験や技術を一般化しようとした学問である。ただ、河川の役割は治水・利水・環境と一口
にいわれるが、これらの役割の重要性は地域的にも時代の変遷でも大いに異なっていて、
当時の日本全国の河川事業はほとんど治水であった。
長く幅広い河川行政の経験に基づく武之輔の「河川工学」の講義を聴講できないのが残
念である。

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