日時:平成19年7月21日(土)
場所:興居島
内容:「顕彰碑」「観音寺」訪問後、相子ヶ浜「山田商店」で懇親会
【四十島 通称 ターナー島】
所在地 愛媛県松山市高浜町1丁目乙115番
地積 1,199m2
経緯
明治28年4月 夏目漱石松山中学校に赴任
明治37年2月 国から四十島の払い下げを受ける。
明治39年4月 小説「坊っちゃん」発表
昭和52年頃 松喰い虫被害の拡大
昭和53年頃~ 北岡杉雄氏(元小学校教諭)が黒松の移植を開始
平成3年9月 19号台風による高波、塩害
平成17年6,月22日 松山市から譲与申請
松山市の北西部に位置し、高浜港から2キロという近くにあり、フェリーで約10分。伊予の小富士とよばれる山がある。古文書によると、島の中央部の船越に小千御子の御母和気姫命を葬ったところから、島は母居島(もいじま)と呼ばれていたが、元禄の頃興居島に改めたという。冬は暖かく、雪や霜の害がほとんどなく、また夏は涼しい風光明媚な島である。島には、古くから伝わっている伝統芸能の「船踊り」があり、県の重要文化財に指定されている。
由良地区の町並みの中心に「島の玄関口」由良港があります。
昭和29年5月 全日本建設技術協会が建立
(表)
偉大なる技術者/宮本武之輔博士/この島に生る
(裏)
宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し/卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる/文才とを兼ね具へ終生科学立国を主唱す/知る者皆其の徳を慕う/明治25年1月生/東京帝国大学工学科卒業・内務技師として我国土木事業に盡瘁(じんすい)/興亜院技術部長として大陸の建設事業を指導/企画院次長として産業立国の策定に挺身/昭和16年12月東京に於いて没す
宮本家の墓は、長い石段を上り山門に向かって左側の見晴らしのいい「一等地」にある。
宮田家の墓
宮田兵吉は、武之輔に中学、高校を通じて毎月学費・生活費を援助し続けた。
兵吉と武之輔の父藤次郎とは幼なじみであり昵懇の仲であった。
窪内家の墓