第2回例会(興居島)18.08.26

日 時:平成18年8月26日(土)

場 所:興居島

内 容:「顕彰碑」「墓地」「後藤家」等を訪問後、相子の浜で懇親会

伊予鉄道 高浜駅

伊予鉄道 高浜駅

高浜港 フェリー

高浜港 フェリー

高浜港フェリー桟橋

高浜港フェリー桟橋

四十島 通称 ターナー島

四十島 通称 ターナー島

【四十島 通称 ターナー島】
所在地 愛媛県松山市高浜町1丁目乙115番
地積 1,199m2
経緯
明治28年4月 夏目漱石松山中学校に赴任
明治37年2月 国から四十島の払い下げを受ける。
明治39年4月 小説「坊っちゃん」発表
昭和52年頃 松喰い虫被害の拡大
昭和53年頃~ 北岡杉雄氏(元小学校教諭)が黒松の移植を開始
平成3年9月 19号台風による高波、塩害
平成17年6,月22日 松山市から譲与申請

宮本武之輔顕彰碑前記念撮影

宮本武之輔顕彰碑前記念撮影

宮本武之輔顕彰碑
昭和29年5月 全日本建設技術協会が建立
(表)
偉大なる技術者/宮本武之輔博士/この島に生る
(裏)
宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し/卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる/文才とを兼ね具へ終生科学立国を主唱す/知る者皆其の徳を慕う/明治25年1月生/東京帝国大学工学科卒業・内務技師として我国土木事業に/興亜院技術部長として大陸の建設事業を指導/企画院次長として産業立国の策定に挺身/昭和16年12月東京に於いて没す

宮本武之輔顕彰碑 表

宮本武之輔顕彰碑 表

宮本武之輔顕彰碑 裏

宮本武之輔顕彰碑 裏

後藤家にて武之輔の話を聞く
後藤家:宮本武之輔の妹タマヨの嫁ぎ先
武之輔やその家族について説明してもらう
武之輔は興居島に帰ると後藤家に宿泊していた。
戦時中は、宮本夫人幸子と子供たち(とし子(長女)靖(長男)さと子(二女)信(二男)なが子(三女))、幸子の両親が疎開していた。また、その後もたびたび訪れていた。
後藤家にて武之輔の話を聞く

後藤家にて武之輔の話を聞く

宮本家 菩提寺 観音寺
宮本家の墓は、長い石段を上り山門に向かって左側の見晴らしのいい「一等地」にある。
宮本家 菩提寺 観音寺

宮本家 菩提寺 観音寺

宮本武之輔の墓

宮本武之輔の墓

宮田家の墓
宮田兵吉は、武之輔に中学、高校を通じて毎月学費・生活費を援助し続けた。
兵吉と武之輔の父藤次郎とは幼なじみであり昵懇の仲であった。
宮田家の墓

宮田家の墓

宮本家菩提寺観音寺にて記念撮影

宮本家菩提寺観音寺にて記念撮影

相子の浜にて懇親会

相子の浜にて懇親会

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